この本読んだ 13


狐の読書快然 洋泉社 一九九九・八

 月並みないい方で恐縮だが、知る人ぞ知る匿名書評家〈狐〉の、『狐の書評』(1992)、『野蛮な図書目録』(1996)に続く三冊目の書評集である。〈狐〉とのつきあいは同じ洋泉社から出た前著『野蛮な〜』以来だが、後で偶然〈狐〉の正体を知らされてみると、国文学のエキスパートとしての著作も含めれば、ある現代日本の作家をめぐる鼎談集(1995)以来ということになる。だが、ここでく狐〉の正体を詮索するのも野暮というものだろう。く狐〉はく狐〉、『野蛮な〜』の序に記されていたとおり、「もとより著名な人物があえて名を伏せて書く文章ではない。読み手がこれを書いているのはだれなのかと推測する楽しみなど、あらかじめ欠いている。(略)匿名は匿名、表も裏もありはしない」書評者としての決意があるからである。本は立って読む、それがく狐〉の読書法である。「本を読む時間というものを、日常的な時間の厚い層の中から切り出し、際立たせる」こと、この「まるで一本の頓狂な竿」のごとき「身体の型」こそ、〈狐〉が発見した本の読み方である。同時に、読んだ一冊を書評するにあたっての「一本の愚鈍な棒」のごとき匿名者としてのスタイル、しかし、こちらはむしろ「精神の型」ということだろう。この「頓狂な竿」としての読書法は、本書の中でさらに工夫を施され、いよいよ〈磨き〉をかけられているようである。すなわち、いぼいぼ竹踏みに立って読む。窓辺に置いた本は開いたまま文鎮で押さえ、手にはメイド・イン・USAのドルフィン型つぼ押しを持つ。ときには竹ひごを束ねた台湾製の身体叩きを用いながら読む。何しろ毎夜の読書である。疲れたときにはさらに木製の野球バットを杖代わりにしたりもする。これらの仕掛を、しかし読書のための涙ぐましい努力と観じてはならない。石垣りんの詩「表札」にく狐〉が読み取ったのと同質の「凛乎たる意思と微かなユーモア」をこそ、そこに見るべきである。さて、本書もまた前二冊と同じく、1981年から『日刊ゲンダイ』紙上に週に一本のペースで連載された(そして現在も続いている)書評のうち、1996年6月〜1999年5月のぶんを集めたものである。ここでは、あえて内容には触れない。とにかくまず目次を開き、その守備範囲の広さに目をみはっていただきたい。(森俊司)