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『水の下の石』 山本周五郎全集 第十九巻 「蕭々十三年 水戸梅譜」収録  新潮社一九八三・十

山本周五郎の作品は、日の当たる場所での人々や出来事よりも、作者が大衆小説家として、日常生活の中での、人の心の本質を追求しつづけた作品が多く、普段からの生き方・ものの考え方の基本を明快に現すことによって成り立っています。事に乗じたときに自分の置かれた状況を正しく判断し、いま何をするのが一番必要なのかを見極めて、なにごとでもないように死んでいった「水の下の石」の主人公には、周五郎作品の根底に流れる、不断の心構えが瞬時の行動を判断させ得るものなのだということが現れていると思います。戦国時代末期の合戦の城攻めにおいて、敵の城に忍び込んで撹乱する命令を受けた加行小弥太が、仲間とともに隠密行動で城の堀を渡っているときに不幸にも落ちて大きな水音を立ててしまう。敵は水音を聞きつけ堀の探索をし、浮いてくるものを確認しようとしている。ここで浮き上がったなら、必ず発見されて仲間も見つかって、この作戦は失敗してしまう。小弥太はそこで敵に見つからない一番確実な方法をとる、それは水面に浮かび上がらないのが最善であるとして、体が浮かんでいかないように水の底の石にしがみついて死んでしまう。これは「自分が置かれた立場を冷静に判断した」というよりも、周五郎の思想としては普段の生活、ものの考え方が確かなものであればこのようになるものだ、と表現しているのではないかと思うのです。物語の始めのほうに、「敵のすっぱ」として捕らえた者の始末を任される小弥太は、捕らえた者の必死になって訴えるその姿をみて、百姓の娘と判断して解き放してしまう。合戦の最中ではみんな気が立っていて、怪しいものは敵と判断することが最善のこととして処理するのが普通なのだけれども、主人公(作者)の人を見るやさしい目(ものを見る基本的な考え)によって、本質を見越す姿がここに描き出されるとともに、ここ一番というところでの主人公の死は、周五郎思想が不断の姿として現れているものではないかと、非常な感銘を受けました。
(田端孝志)