第16講 ニコライ2世と1905年革命 アレクサンドル治世末期の混乱 1.鉄道建設と大津事件 1890年10月皇太子ニコライ世界一周旅行に出発 1891年3月18日アレクサンドル3世ニコライに宛てた書簡でシベリア鉄道建設の勅語 中国市場を巡る英国との極東進出競争 ニコライ91年4月15日日本到着、長崎上陸 ニコライ4月29日大津到着、遭難、神戸からウラジオへ 5月15日ウラジヴォストークでウスリー鉄道起工式参加 2.高率関税 91年6月10日 12.8パーセントだった関税を33パーセントに引き上げ、国内産業の保護をねらう ドイツとの対立を招く 3.91年8月露仏同盟締結 4.夏以降の大飢饉:飢饉とコレラによって約40万人が死亡 ウィッテ体制 1892年8月セルゲイ・ウィッテ大蔵大臣就任 ・シベリア鉄道問題−経済的効用を説く ・鉄道建設のための歳入策:93−ウォッカ専売制、94−粗糖税引き上げ75パーセント 外債募集(主にフランス)、その裏付けのための金本位制の導入−為替相場安定し外貨流入の好条件となる(金保有量の2倍の兌換券を発行) ・ドイツとの通商関係の改善:高率関税でこじれた対独関係の修復 94露独通商条約締結:ロシアはドイツに穀物を輸出して代わりに機械を輸入する (フランスの金でドイツの機械を購入してアジアに鉄道を引く) 1894アレクサンドル3世腎臓病で死亡(49歳) ニコライ2世即位(26歳) 96年5月のホドゥインカ原での即位式典で1389人の死者が出る(パンとイニシャル入りのコップが配られた)英国ヴィクトリア女王の孫アレクサンドラ(後に改宗してアレクサンドラ・フョードルヴナ)と結婚 当初、ニコライはウィッテらの助言によって政治を行った(日清戦争後3国干渉で日本に遼東半島を返還させたなど−日露関係の悪化) ウィッテ体制下での経済成長 90年代に2万2千キロの鉄道建設 南部ロシアを中心とした鉄工業:銑鉄生産量が90年代で3倍1900年には世界第4位の生産高 石炭業南部ドンバスを中心として90年代に5-6倍 石油バクー石油世界中の産油量の51パーセント 労働者数の急増1887年131万人−97年209万8千人(初の国勢調査)それでも農村人口は全体の87パーセント 帝国主義競争の中での国内矛盾の噴出:ロシア社会の急速な変化(チェーホフの『桜の園』1904年モスクワ芸術座で初演) 1900年経済恐慌始まる 鉄道王フォン・デルヴィズとマモントフ破産 学生、農民、分離独立運動活発化 中国で義和団事件始まる ゼムストヴォの参加要求(全国会議ゼムスキイソボールの召集、基本的人権の確立、身分特権の廃止)−ニコライ「ばかげた夢想」を批判 臨時条例と学生運動: 1900懲罰徴兵規則によるキエフ大学生処分事件(破廉恥事件に端)をきっかけに激化 学生カルポーヴィッチ文部大臣ボゴレーポフ暗殺 3月カルポーヴィッチ裁判に併せてペテクブルクで学生市民のデモ、コサック兵が乱入して死者、負傷者多数 4月臨時条例撤回 農民運動:1902年南ロシアのハリコフ、ポルタヴァで農民反乱(ツァーリが土地を与える勅令を出したとのデマがきっかけ)、農民1092人逮捕される。 労働運動:ロストフ・ナ・ダナーで1902年11月3万人の労働者によるゼネスト 1903年バクーを皮切りに南ロシア各地でゼネストが続く 革命運動:1901年エスエル(社会革命)党設立、ナロードニキ系、テロリズムを容認、農民社会主義を目指す エスエル戦闘団の学生バルマーシェフ、内相シピャーギンを暗殺 マルクス主義者プレハーノフ、レーニン、マルトフら1901年から『イスクラ』発行してナロードニキに対抗、1903年ロシア社会民主労働党第2回大会(ブリュッセルとロンドン)大会でレーニンの多数派とマルトフの少数派に分裂 立憲主義者:1902年シュトゥットガルトでストゥルーベ『Освобождение解放』。1903年スイスのシャフハウゼンで解放同盟設立、ロシアを専制から解放するという一点で一致する幅広い同盟 政府の対応:モスクワ保安部長ズバートフ、合法的御用労働者組織を作る。労働運動を経済的なものに限定。社会主義者の掲げる専制打倒と対抗。−「警察社会主義ズバートフシチナ」の浸透によってかえってストライキが拡大 皇后アレクサンドラ・フョードロヴナ3女をもうけた後、1904年初の男子を生む。血友病。 日露戦争 1904年2月、日本軍の旅順港攻撃(宣戦布告なし)で日露戦争始まる 1904年8月、日本軍遼陽占領、ロシア軍敗色濃くなる 政府部内でも国内治安に関して妥協を模索する 和解論者のスヴャトポルク・ミルスキイ内相に就任:ゼムストヴォに譲歩、宴会盛んになる 1904年9月反政府党・革命党会議(於パリ)エスエル、解放同盟、その他フィンランド民族主義党、ポーランド社会党、ポーランド国民連盟、グルジア革命的社会主義者連邦党、アルメニア革命連合、ラトヴィア社会民主同盟などが参加。明石大佐の資金援助 1904年12月旅順陥落ステッセリ降伏 ガボン事件と1905年革命 合法組織「ペテルブルク市ロシア人工場労働者の集い」(通称ガボン組合)を組織、労働者の教養・啓蒙活動をする。旅順陥落、バクー石油労働者のゼネストなど、国内の労働争議の激化にともない、ガボン、ツァーリに請願書を提出する決心をする。「プラウダ」の実現をツァーリに誓願する。具体的には普通・秘密・平等選挙による憲法制定会議の招集をはじめとする17項目の要求。政治・宗教犯、労働・農民運動家の釈放、基本的人権、無償義務教育、戦争の停止、労働立法など 1月9日日曜日約7万人の市民がデモに参加、1000人が死傷。(血の日曜日事件) 2月18日勅書で「国家ドゥーマ」開設を約束 10月勅書と10月体制