写真−ビッキのアトリエ倉庫
札幌大学展示スペース学長室 砂澤ビッキ作品展
『樹華』と音威子府
会 期/2000年10月14日(土)−11月11日(土)
 「自然と芸術」は、札幌大学文化学部北方文化フォーラムなどで、私たちが求めてきた一つのテーマであり、その流れの中で世界的な木彫作家砂澤ビッキと出会いました。北海道の森から生まれた作品、「樹華」を展示スペース学長室に展示できたのは、私たちの大きな喜びです。この作品をお借りするために、私たちは音威子府村を訪れ、砂澤ビッキの旧アトリエや、「ビッキの樹」がある北大演習林、ディヴィッド・ナッシュの制作跡地や天塩川の岸辺を、村の方々にご案内いただきました。音威子府村には現在も樹の文化が生き続けています。「樹華」を中心に、拙くとも私たちが撮影した音威子府の写真を並べたのは、それを伝えたかったからです。
展示作品
砂澤ビッキ木彫作品
作品タイトル:「樹華」
制作:1984年頃
所蔵:音威子府村
サイズ:幅188cm×奥行き160cm×高さ260cm
材質:イタヤカエデ、ヤナギ


写真−音威子府の風景 22点
撮影者:内藤絵美・湯田亮介・小山玲子(本学学生)
石塚純一

『樹華』と展示スペースの風景

樹華・TENTACLE・音威子府
北海道立近代美術館 浅川 泰
 砂澤ビッキが道北の音威子府(オトイネップ)村にアトリエを移したのは1978年初冬である。新年の挨拶状の中で音威子府がアイヌ語地名に由来することを紹介し、次のように制作への抱負を語った。
 音威子府はアイヌ語で曲がりくねった天塩川の流木の集積するところの意です。流木で制作するのではありませんが、豊富で見事な素材があります。
写真−演習林タワー<思考の鳥>  ビッキが住んだ筬島(オサシマ)は音威子府本村から天塩川に沿って北に上がった物満内(モノマナイ)の一角にある。天塩川が流れ、後ろに北海道大学演習林の山々が広がっている。筬島からさらに北に上がると山々は険しくなり、そこを天塩川は蛇行して流れている。1857(安政4)年、天塩川を遡った松浦武四郎は中川町神路(カミジ)の渓谷の風景を「絶壁恰も掌を立る如し。嶺にはフ杉(フフ)、蝦夷松(シュンク)、岩に匍匐し実に猿愁蛇退の奇絶地」(『天塩日誌』1861年)と表現しているが、エゾマツやトドマツの生える、荒々しい山野には不思議な魅力がある。ビッキの言う「北方体質的な形態」とは、北方の自然が自ら立ち現われる、そのあり方なのである。
写真−ビッキのアトリエ倉庫にて  1960年代半ばから、ビッキは「TENTACLE」(下等動物の触手のことで、触覚による造形世界を表わす)というテーマで彫刻と取り組んでいた。それは手ざわりの彫刻と言ってもよいであろう。「TENTACLE」を迷宮的世界としているのは、それが手さぐりであり、出口がない(見ることができない、かたちがない)からであろう。ビッキは新年の挨拶状に「豊富で見事な素材」と書いたが、音威子府の森は、素材として豊かであったのではない。ビッキにとって、それ全体が一つの見事な芸術であった。
樹華  「樹華」が制作されたのは1983年のことで、音威子府に移って5年目の年であった。筬島保存林から天塩川に流れ下る頓別坊(トンベッポ)川付近に自生するヤナギが素材になった。大小の幹や枝を交差させて構成するこの作品は太い幹による、高さ3メートルもある大作から、細い枝を使った小品まで様々な形態をもつ。ヤナギは皮が剥かれ、白い木肌が柔らかである。1983年から翌年にかけて、「女体」とか「樹の処女」という題名で「樹華」が発表されている。1984年、音威子府の山村広場にミズナラの幹を組んだモニュメントが設置された(1999年に解体)。「樹華」は常に解体され、再構成される。「TENTACLE」とは彫刻の解体であった。「樹華」はそのことによって自然に回帰しているのである。
 「樹華」について、それが森の形態をとっていて、茂る自然林であり、その伸長する枝葉は音威子府を象徴すると、ビッキは書き残している。


砂澤ビッキ略歴
写真−砂澤ビッキ1931年3月6日、旭川市緑町15丁目に、父・砂澤市太郎(アイヌ名・トアカンノ)と母・ベラモンコロの間に生まれる。本名は恒雄(ひさお)、「ビッキ」は少年の頃からの愛称であった。 1947年、北海道立農業講習所(現・北海道立農業大学校)に入学。一家は神居村上雨紛(現・旭川市神居町共栄八区)に入植。 1948年同校修了。父が開拓した上雨紛で農業に携わる。 1953年、阿寒湖畔に滞在し、土産物の木彫に従事。その後、鎌倉に移り住み、阿寒湖畔と鎌倉往環生活が始まる。 1952年2月、第五回モダンアート協会展(東京都美術館)に初入選。3月、第七回読売アンデパンダン展(東京都美術館)に出品。 1956年、第六回モダンアート協会展に<後進民族>(彫)を出品して、彫刻に転向。 1960年、第一回集団現代彫刻展(東京・西武百貨店)に<動物6 捕獲された動物>を出品。 1964年「TENTACLE No.1」彫刻展(東京・秋山画廊)を開催、「迷宮と下等動物の触覚」というテーマを設ける。 1967年8月、阿寒から札幌に転居する。「雑種構成小動物の夜景」第1回展(札幌時計台画廊)。 1968年春、中央区宮の森に「アトリエ・モア」を構える。その後、北日本民芸社内にアトリエを移し、「アトリエ・モアモア」と新たに名付ける。 1973年1月、「全国アイヌの語る会」(札幌・ほくろう会館)の実行委員長、司会を務める。 1975年11月、第一回木面展(札幌・仏蘭西市場)。 1976年1月、「アーティスト・ユニオンシンポジウム'76」(東京都美術館)に出品。 1978年第一回北海道現代美術展(北海道立近代美術館)にを出品。9月、個展(札幌時計台ギャラリー)。会場にて音威子府高校校長・狩野剛を知り、音威子府村筬島に移住。旧筬島小学校をアトリエとし、「アトリエ・サンモア」と名付ける。 1979年個展(音威子府・アトリエ・サンモア)。第一回「樹を語り」作品展(音威子府中央公民館、以後1988年まで毎年開催)に矢崎勝美とともに出品。 1980年、音威子府駅前の<オトイネップタワー>を制作、1981年、北海道大学中川地方演習林事務所前に演習林タワー<思考の鳥>を設置。 1983年、カナダのブリティッシュ・コロンビア州に滞在。12月、「IMAGES OF BRITISH COLOMBIA」展(バンクーバー・アーチストギャラリー)。 1985年1月「現代彫刻の歩み−木の造形」(神奈川県民ホールギャラリー)に<トゥ(TOH)>二点を出品。3月、「ドキュメント人間列島−カムイの大地に木霊が響く」(NHK)出演。 1986年、木の六人展(北海道立近代美術館)に出品。 1988年、「一木多触」展(東京・INAXギャラリー)。国立旭川医科大学付属病院に入院、手術を受ける。 1989年、「現代作家シリーズ89−上野憲男・砂澤ビッキ・吹田文明展」(神奈川県立県民ホールギャラリー)出品、オープニングに出席。1月25日、札幌愛育病院にて死去。享年57歳。第十一回「樹を語り」作品展−砂澤ビッキ遺作展(音威子府公民館、アトリエ・サンモア)。『砂澤ビッキ作品集』(用美社)刊行。
浅川泰著『砂澤ビッキ』(北海道新聞社刊)より抜粋


砂澤ビッキ関連リンク
音威子府村 http://www.hokkai.or.jp/otoineppu/
音威子府商工会 http://city.hokkai.or.jp/~ototown/index.html
札幌芸術の森美術館 http://www.artpark.or.jp/


砂澤ビッキ作品展関連イベント
札幌大学文化学部北方文化フォーラム 2000年度第13回講演会
テーマ/「砂澤ビッキと現代」 講 師/酒井忠康氏(神奈川県立近代美術館館長)
日 時/11月11日(土) 13:00〜14:30 会 場/札幌大学1号館1201教室
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